- 日替わりコラム
Fri
1/23
2026
向田邦子さんが社会人になった頃は、いわゆるテレビの創成期で、ドラマやニュースの作り方を模索した時期です。昭和28年以降、テレビ電波を止めないために番組を編成しますが、やり続けるということはかなり大変です。そこで採用されたのが「ブレーンストーミング」でした。自由なアイデアの創出を尊重し、質より量を重視して、アイデアを出し合い発展させる方法です。アイデアの宝庫であった向田さんにはもってこいの場所だったのではないかと思います。
かつて、映画がサイレントだった頃、一人の物知りが筋書きを書いて、それを撮影時に読み、俳優がそれに即した演技をすることで活動写真の大半は成立していました。しかし大正8年に帰山教正(かえりやまのりまさ)監督が『生の輝き※ 』を公開したあたりから脚本の重要性が認識されるようになります。松竹が映画製作に乗り出して、小山内薫(おさないかおる)先生が松竹キネマ俳優学校の校長になって以降、シナリオは映画の骨格という認識になります。つまり活動写真から映画芸術に発展する過程で、脚本作りは舞台台本の世界から独立し、独自の地位を得ることになります。ただし、当時は若手が書いて、師匠が指導するスタイルでした。向田さんは映画雑誌の記者出身ですから、この軌跡を理解した上で、テレビドラマの脚本の在り方を模索しつつ、放送界に飛び込んでいったことになります。
※ 帰山教正監督の映画『生の輝き』は、脚本を制作し、女優(当時は女形)と字幕の使用、映画的手法の活用(固定撮りだけでなくクローズアップなどを駆使する)が行われていた
写真技術研究所別所就治
全部または一部を無断で複写複製することは、著作権法上での例外を除き、禁じられています
- アクセス