- 日替わりコラム
Wed
4/1
2026
江戸時代初期に活躍された至道無難(しどうぶなん)という禅師さまの道歌に、
「主(ぬし)ありて 見聞覚知(けんもんかくち)する人(ひと)は 『生(い)き畜生(ちくしょう)』と 是(これ)をいふなり
主なくて 見聞覚知する人を 『生(い)き仏(ぼとけ)』とは 是をいふなり」
という言葉があります。
「主」とは、「わたくし」という意味で、自我を優先し、私情を中心に置いた見方や考え方は、誰のことも幸せにすることができないばかりか、結果的に自分のことをも不幸に陥(おとしい)れることになってしまいます。
「主をなくす」ということは、自分の「わがまま」を通すのではなく、仏さまのように「あるがまま」を受け入れることのできる「優しさ」をもち、その心を行動で示すことができるということです。
「正見(しょうけん)は無見(むけん)なり」とも申しますが、「わがままな見方」ではなく、仏さまのように「あるがままな観方」ができた時、同じく、無難禅師の「徹底して自己を無くせば、『慈悲(じひ)・和(やわらか)・直(すなお)』が顕(あらわ)れて来る」という言葉の通り、「慈眼(じげん)・和眼(わげん)・直眼(じきげん)」という、世界全体の平和を願い、観守るような『仏さまの眼差し』を開くことができるのだと思います。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」この宮沢賢治の言葉と無難禅師の教えを胸に、今日も、「優しい心」をもって「生きる」という行動を、仏さまに示したいと思います。
合掌
下野国 舎那殿壇 龍興寺 副住職阿波建多
全部または一部を無断で複写複製することは、著作権法上での例外を除き、禁じられています
- アクセス