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COLUMN

- コラム

「月刊クリンネス」に掲載された
過去の連載コラムの中から、
テーマ別に選りすぐりの記事をご紹介します。
(執筆者や本文の情報は執筆時のものです)

合っていますか?その日本語

文化庁国語課 国語調査官(執筆当時) 武田康宏

「檄を飛ばす」

 「売上げアップに向けて社長の檄が飛んだ」、「監督がベンチを飛び出して選手に檄を飛ばした」などと使われる「檄を飛ばす」。「𠮟咤激励する」という意味で用いられることが多く、文化庁の「国語に関する世論調査」でも、7割強の人が「元気のない者に刺激を与えて活気づけること」だと回答しました。しかし、本来の意味はかなり違います。
 「ゲキ」という音から「激励」や「刺激」の「激」という漢字を思い浮かべる方が多いようですが、これは勘違い。ご覧のとおり「さんずい」ではなく「きへん」の字です。「檄」は、古代中国で、人々を諭すメッセージを伝える際に用いた木札のこと。それが変化して「自分の意見や主張を述べて、広く同意を求める文書」を表す言葉として使われてきました。「檄を飛ばす」は、「選挙の候補者が公約を掲げ、人々に檄を飛ばしていた」というように、「自分の考えや意見を広く伝えて、同意を求めたり、決起を促したりする」という意味で用います。
 近年、スポーツ新聞などが「ゲキを飛ばす」と仮名書きし、あえて「𠮟咤激励」の意味で使っているのをよく目にします。用法が変わりつつある言葉ですが、最新の辞書の中にも「俗に激励の意味で用いるのは全くの誤り」と指摘するもの(『新明解国語辞典』第七版 三省堂)までありますから、まだ注意が必要と言うべきでしょう。
(2013年8月号掲載)

「御持参ください」

 招待状や案内状によく見掛ける「御持参ください」という言い方。「昼食を御持参ください」、「このはがきを御持参ください」などと使われますが、敬語を解説する本などの中に、このような使い方を誤用としているものがあります。どのように考えればよいのでしょうか。
 結論から言うと、目上の人や客に対して「御持参ください」と言っても問題はありません。誤りとする考え方は、「参」という漢字に着目し、「持参」を謙譲語であると捉えるところに由来します。「参」は、自分が「行く」ときの謙譲表現である「参る」として使われますし、「参上」や「参拝」などいくつもの謙譲語に含まれるからでしょう。
 しかし、「参」には、加わる、出席する、という意味もあります。たとえば、「参加」、「参政」、「参観」などの語には、謙譲の意味はありません。「御参加ください」という言い方に違和感を覚える人はいないでしょう。「持参」についてもこれらと同様に考えることができますから、「御持参ください」と言っても差し支えないのです。
 ただし、この言い方が気になったり、誤りだと考えたりする人がいることは事実ですから、使わない方が無難であるという判断もあり得るでしょう。その場合には、前もって「お持ちください」などと言い換えておくこともできそうです。
(2013年10月号掲載)

「役不足」の誤解

 職場で、新しい任務を与えられたあなたに、上司がこう言います。「君にとっては、ちょっと役不足だな。しかし、がんばってくれたまえ」。―この「役不足」という言葉、あなたならどう受けとめますか。
 本来「役不足」は、「本人の力量に対して役目が軽すぎること」。つまり、その人の実力からすると、任務や役職の方が軽くて不十分であるという意味で用いられる言葉です。先の上司は、あなたの力量を評価して「君には物足りない役目だろうが...」と言っているのです。
 しかし、「私では役不足です」などと誰かが謙遜する様子で言うのを聞いたことはありませんか。文化庁の「国語に関する世論調査」で「役不足」の意味を尋ねたところ、過半数の人が本来の意味とは逆に「本人の力量に対して役目が重すぎること」と回答しています(平成24年度調査)。そのように理解している人にとっては、冒頭の上司の褒め言葉も「君では力不足だが...」と聞こえるおそれがあります。逆に、本来の意味で理解している人には、「私では役不足です」という言葉がひどく傲慢な言葉として響いているかもしれません。
 人によって正反対の意味で用いられる言葉は、そんな行き違いを生みます。特に「役不足」は人の評価に関わるような言葉ですから、本来とは逆の意味で用いる人が多いことを踏まえ、慎重に扱うべきでしょう。
(2013年12月号掲載)

「潮時」

 あなたはある会社で、資金運用を任される立場にいます。ある日、社長から「君、今は投資の潮時だぞ」と声をかけられました。この言葉を、あなたはどう受け止めるでしょうか。
 「投資の潮時」と聞いて、社外に投資している資金を手元に戻さなくては、と思った方はいませんか。スポーツ選手が引退するときに「そろそろ潮時だと感じて...」といったコメントをすることがあるように、「潮時」は「何かをやめるべきとき」、「物事の終わり」という意味で使われる場合が多くなっています。「最近の視聴率からすると、この番組はもう潮時だな」といった使い方も同様です。
 しかし、これは本来の意味からずれています。「潮時」とは、海の潮が満ちたときや引いたときのこと。それを転じて、「何かをするのに、ちょうどいいとき」という意味で用いるのが本来の使い方です。この意味に立てば、冒頭の社長は「今は投資をするのにぴったりのタイミングだぞ」とあなたに言っていることになります。
 「潮時」は、「○○の潮時」のように使うのがよいでしょう。「結婚の潮時」、「事業拡張の潮時」など、積極的な行動にも用いることができますし、言うまでもなく、物事をやめるような場合にも「引退の潮時」、「番組打ち切りの潮時」と言えば問題ありません。
(2014年2月号掲載)

「とんでもございません」

 人に感謝や褒めの言葉をかけたときに、「とんでもございません」と言われたことはありませんか。日常的にもよく聞く言葉なのですが、この言い方には問題がある、という考え方があります。
 「とんでもございません」は「とんでもない」を丁寧に言ったものだと思われがちです。ところが「とんでもない」は、「切ない」や「危ない」と同様に一語の形容詞であって、「とんでも」と「ない」に分けることができません。「ない」の代わりに「ございません」を当てることは、文法的に成立しないのです。本来の丁寧な言い方は「とんでもないです」、「とんでもないことでございます」などになります。
 しかし、ちょっとしたことで褒められたときに「とんでもないことでございます」と反応したとしましょう。この言い方は、褒めてくれた人に対して、「あなたの言っていることは、とんでもないことだ」という意味で聞こえてしまうおそれがあります。
 このような事情から、平成19年に文化審議会が示した「敬語の指針」は、褒め言葉などを軽く打ち消すような場合に「とんでもございません」を使うことを認めました。誤用と考える人がいることは無視できないものの、「とんでもございません」は、すでに社会生活に定着した言葉であると考えてよいでしょう。
(2014年4月号掲載)

「号泣」

 「誰もが号泣するラストシーン」、「○○さんも号泣!」といった映画の宣伝文句を見ることがあります。しかし、映画の途中で本当に「号泣」したら、館外に引きずり出されるかもしれません。
 辞書で「号泣」を引いてみると「大声をあげて泣くこと」(『広辞苑』岩波書店)、「感きわまって、大声をあげて泣くこと」(『新明解国語辞典』三省堂)などと説明されています。「怒号」や「号令」にも使われる「号」には”さけぶ“という意味があり、本来、「号泣」は大声を出す泣き方をいうのです。映画館ではどんなに激しく泣いても、声を押し殺そうとするでしょう。そのような泣き方は「号泣」ではありません。
 では、声の有無にかかわらず、激しく泣く様子自体はどう表現すればよいでしょうか。「嗚咽(おえつ)」、「欷歔(ききょ)」という言葉はありますが、”すすり泣き“という意味合いが強く、激しさそのものを表現しきれません。「慟哭(どうこく)」にも「大声」がつきものです。実は、激しく泣くことそのものをうまく表す適当な熟語は見当たらないのです。
 そのような事情に加え、テレビや週刊誌などが誰かの涙する様子を大げさに「号泣」と表現する傾向が影響して、大声の有無に関係なく、ちょっと激しい泣き方をすれば「号泣」だと思っている人が増えています。意味が変化しつつある言葉なのかもしれません。
(2014年6月号掲載)

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