イカリホールディングス株式会社 よりそい、つよく、ささえる。/環文研(Kanbunken)

COLUMN

- コラム

「月刊クリンネス」に掲載された
過去の連載コラムの中から、
テーマ別に選りすぐりの記事をご紹介します。
(執筆者や本文の情報は執筆時のものです)

子どもたちの笑顔のために我々大人にできること

NPO法人 こどもプロジェクト 代表 福田恵美

食を通して子どもたちを元気にしたい

 NPO法人を運営する中で「活動を始めたきっかけは?」と聞かれることがよくあります。「息子が3歳で亡くなったから」と答えることが多いのですが、それ以上説明することはあまりありません。
 息子の病気は「先天性多発性関節拘縮(こうしゅく)症」。国立小児病院の診断では、心臓から遠い関節ほど固く可動域が狭い、原因不明の大変まれな病気とのこと。脳にも問題があったようで、人工呼吸器や中心静脈栄養となり、一度も退院できないまま桜の散る季節に旅立っていきました。
 毎日面会に通っていた私には、大きな変化がありました。産後に頭が再編成されたかのように、まったく違った知覚や情報が入ってくるようになりました。本当に大切なもの、自分がこの人生でやらなければならないことなどがわかり、子を愛し守ることが生きがいとなりました。亡くなってからの何も手につかない時を経て、わが子から学んだ大切なことを実現したい、と活動を始めました。そして病気の子どもや原発避難親子の支援からこども食堂に出会いました。私の料理をもぐもぐと口を動かし食べてくれる。喜んでくれる。そんな普通の光景が私には感動で、自己満足だと思いつつも、こども食堂の活動に魅せられていったのです。
 誰にでもできること、日常のこと、それがこども食堂の原点なのではと私は考えています。
(2025年2月号掲載)

日本にも貧困の子どもたちがいる

 15年以上前になりますが、「日本の子どもの貧困」についてNPOが合同記者会見を行い、飢餓や医療体制が整っていない発展途上国の「絶対的貧困」に対し、日本には平均所得を大きく下回る年収200万円以下の世帯の子どもが6~7人に1人の割合でいるという、「相対的貧困」の実態が明らかにされました。貧困の家庭に生まれた子どもが貧困から抜け出すことが難しい「貧困の連鎖」の原因の一つは教育格差ですが、空腹では勉強どころではないと、教育支援とともに食事支援が広まっていきました。私たちもこども食堂を始めてから困窮家庭に接することが多くなり、初めてその現状を知りました。貧困と一言で言っても、栄養不良だけではなく、虐待、育児放棄、不登校、いじめ、差別などさまざまな問題が絡み合っていることが少なくありません。子ども自身には外部の大人に伝える力がなかったり、自覚がない場合もあるので、どのような方法でその子どもや家庭を見つけ専門機関につなげるかが支援の第一歩となっています。コロナ禍以降、失業や引きこもりも増えて、ますます困窮家庭が見えにくくなってしまいました。
 国が少子化対策として子ども・子育て支援に取り組み始めて20年。むしろ課題は増え、支援のほふく前進状態は続き、いま抜本的な改革が求められています。
(2025年4月号掲載)

原発事故で東京に避難した親子の話(前編)

 2011年3月11日の東日本大震災を引き金に起きた未曾有(みぞう)の原発事故。放射性物質の影響をおそれたたくさんの親子が遠くへ、より遠くへと避難しました。東京都内では東京ビッグサイト、味の素スタジアムなどが一時避難施設として利用され、閉館直後であった旧グランドプリンスホテル赤坂も避難者受入れを始めました。ホテルの一角が子どもたちの学習室となり、NPOの運営により勉強したり遊んだりする居場所になりました。その後、いつまで避難が続くのかわからないまま、都営住宅などの無償提供を受けてバラバラになっていきました。
 都営の各避難住宅へ親子を訪ねて回りながら、私たちは招待イベントや保養キャンプなどで避難者親子同士をつなぎ、交流しました。「放射能が感染する」、「たくさん賠償金をもらっている」などのデマで一部の子どもたちがいじめられたり、故郷からは「戻って復興に協力しない裏切者」と言われたり、避難し続けることは容易ではありません。どうすることが子どもにとって最適か、避難した親の誰もが悩みながら、正解がわからないまま決断しなければなりませんでした。
 そして2012年6月、避難する、避難しない、避難先から戻る、すべての選択に対し安心な生活を国が保障する「原発事故子ども・被災者支援法」が制定されました。
(2025年6月号掲載)

原発事故で東京に避難した親子の話(後編)

 2011年の福島第一原子力発電所の事故がきっかけで、福島県などから全国に避難された方は9万人以上に上りました。前例である1986年に起こったチョルノービリ原子力発電所の事故とは条件が異なるため、手探りで支援を進めるしかありませんでした。子どもは大人より放射性物質の影響を受けやすく、直ちに影響は出ないといわれても、いずれはという不安はぬぐえません。避難親子の生活の再建を目指すとともに、子どもたちの健康を守る観点から、安心・安全な食材を使った料理教室やこども食堂にも需要が高まり、活動は多様化していきました。
 避難生活が長期化する中で、支援している親子に発病が相次ぐ時期がありました。事故以来、福島県内では全県民対象の健康調査や子どもたちの甲状腺検査が毎年のように行われ、データは福島県立医科大学附属病院に一元化されています。一方、県外避難者のデータの一元化は、個人情報保護のため困難、かつ事故との因果関係の証明も難しいことがわかりました。期待の「原発事故子ども・被災者支援法」も、その支援対象地域を定めるのに1年以上かかり、理念法※ となってしまいました。
 事故から14年、コロナ禍や物価高騰などさまざまな社会不安が続き、日本全体への支援が必要とされてきていますが、安心・安全な食で子どもたちの未来を守っていきたいと考えています。
(2025年8月号掲載)

※ ある事柄に関する基本理念を定め、具体的な規制や罰則については特に規定していない法律

なぜこども食堂が日本全国に広がるのか

 2024年12月時点で、こども食堂の総数は1万箇所を超えました。近所の子どもたちに無料や低額で食事を提供する人や場所は、それ以前にもあったと思いますが、始まりは2012年「こども食堂」と名付けた東京都大田区の八百屋「だんだん」であるとされています。その「こども食堂」という名前に惹かれ、地元でこども食堂の立ち上げに関わりました。自転車で集まる地域活動に初めて参加し、ご飯を作り、子どもたちの笑顔を見て、当初は「なんて自己満足な活動だろうか」と思いました。しかし、そこで得られる充足感や癒しは何にも代え難く、自分に欠落していた経験や思いを実現する場所となっていきました。
 2018年、東京の原発避難親子の居場所としてこども食堂を始めることになりました。それ以降は地域に開かれた場所となり、支援者が次々と現れ、支えられる活動に変わっていきました。応援してくださる方は子どもが好きで、子どもを差別しないことがわかりました。社会的にも「貧困の子どもが行くところ」というイメージは徐々に払拭(ふっしょく)され、コミュニティづくり、誰もがいてよい居場所、防災拠点とさまざまな形態になってきています。その原点は、子どもにご飯を食べさせたい、守りたい、という母性(父性)本能であり、誰にでもできること。そして、非常時や社会不安の中では、共助の活動であると考えています。
(2025年10月号掲載)

災害時にもすべての子どもに食料を

 全国で増え続けているこども食堂ですが、2020年の新型コロナウイルス感染症の拡大は大きな転機となりました。東京では学校が休校となり、飲食店は休業を余儀なくされるなど実質的なロックダウン状態で、こども食堂の開催については、それぞれの判断に委ねられました。
 その頃、女子児童が実父の虐待により命を落としたという痛ましい事件の裁判の様子が報道されていました。私たちは「学校以外で、SOSを出せる場所が一つでも多くあるほうがよい」と考え、会食ではなくお弁当を配るという方法に切り替えて継続しました。すると、給食で使う予定だった卵などの食材や、東京オリンピック延期で販売できなくなったロゴ入りの菓子、マスクなど、次々と寄付が届くようになりました。それらをお弁当と一緒に親子にお渡しし、大変喜ばれました。
 こども食堂は一つひとつの規模が小さく、特に東京は食料を十分に保管できるスペースがありません。フードロス削減のために寄付された食品や災害備蓄食品をこども食堂に分配する仕組みがあれば、災害など非常時にも役立つと考えています。企業などから寄付された大量の食料を保管し分配する大型倉庫、各こども食堂が直接食料を受け取れる近隣の中型拠点をネットワークで結び、都内各地に整備する活動を広めていきます。
(2025年12月号掲載)

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